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哲学カフェに参加しました

先日、地元で開催されてる哲学カフェに参加してきました。参加者は少人数でしたが、その分、気軽に話せる雰囲気で、ファシリテーションも首尾よく行われていました。今回はその際に話題の一つになった問題について考えてみようと思います。それは「心の豊かさ」は、経済的な豊かさ(など)に影響されるのかどうかという問題です。

人間の精神というのは外界の影響を少なからず受けるものです。過度の経済的、身体的、社会的な障害が、その人から精神的な余裕を奪い、豊かな心を維持することを困難にしてしまうことは十分に考えられます。とりわけ、精神が発展途上にある子供の場合には環境の影響は無視できません。その一方で、経済的、身体的、社会的な障害があっても、精神的に充実した人生を送っている人はたくさんいます。経済的な豊かさを含め、その人が置かれている環境と内面的な豊かさとは、必ずしも比例するものではありません。

それでは、「豊かな心」とは、周辺環境がどれほど劣悪でも、内面的に充足しているような精神をいうのでしょうか。しかし、そこには何か偽りがあるように思えます。貧困を解消し、社会的差別を無くし、障害を持つ人が安心して暮らせる社会をつくることは、それらに苦しむ人の精神をより豊かにすることにつながるはずです。それとも、彼らの精神が劣悪な環境にあっても内面的に充足することに期待すべきなのでしょうか。おそらく、そうではありません。外的な要因が精神の豊かさを決定してしまうことはなくても、そこには無視できない相関関係があります。この相関関係を直視することが社会の変革を求める一つの契機にもなります。

とはいえ、「豊かな心」の持ち主は、劣悪な環境にあっても、「その環境の中に」何かしら精神的充足につながる要素を見いだすことができるのかもしれません。「豊かな心」とは、内面的な砦に閉じこもっている精神ではなく、「外界に開かれつつも」、外的な障害に完全には左右されず、多様な方法で充足できる精神のことをいうのかもしれません。対象が何であっても良いのかには議論の余地がありますが、「豊かな心」の持ち主とは、様々なことに関心を持ち、些細なことにでも感動できるような人をいうのかもしれません。

人間の精神が否応なしに外界の影響を受けることは見過ごせない事実ですが、外界の影響にさらされていているからこそ、発展性や多様性の余地もあります。そして、多様な関心や繊細な感性を育むことを通じて、外的な障害にもかかわらず内面的な充足を得ることは可能なのかもしれません。
# by ars_philosophica | 2012-07-16 19:20 | コラム

自助、共助、公助って?

最近よく、「自助、共助、公助」という言葉を耳にします。自助というのは「自分で自分を助けること」です。これは何だかおかしな日本語です。要するに「自立」ということでしょうか。共助というのは、助け合いのことですが、「自助、共助、公助」という言われるときの「共助」は、身近な人による助け合いを意味しています。最後の「公助」は要するに福祉のことです。

「自助、共助、公助」というは、一見する何か良い言葉のような印象がありますが、政治家が社会保障に関してこのフレーズを使う際に言いたいことは、「福祉の出番は最後の最後ですよ」ということではないでしょうか。なるほど、生活保護の不正受給や福祉への過度の依存は問題です。しかしながら、政治家が「自助、共助、公助」という言葉を強調することは不安をかき立てます。「自立」や「助け合い」という美しい言葉の裏に、福祉をないがしろにしようという意図が見え隠れしているからです。

社会保障について国は最低限の責任を果たせば良いと考える政治家もいるようです。「自分で何とかしなさい。自分たちで何とかしなさい。国に最低限以上のことを期待するのは贅沢です」というのが「自助、共助、公助」の本当の意味かもしれません。まるで、どこかの航空会社のサービス基準のようです。当たり前のことですが、サービスの質は高いにこしたことはありません。社会保障を商業的なサービスと一緒にするつもりはありませんが、国が国民に提供する保障が最低限でなければいけない理由はありません。

福祉を贅沢品と捉えたり、国民を甘やかす要素だと考える政治家もいるようです。彼らは親が子供を見るように国民を見ているのでしょうか。だとしたら、非常に不愉快なことですが、あえて言えば、親というのは子供が少しでも幸福で文化的な生活ができるようにしたいと思うものではないでしょうか。

先日、米国で物議をかもした事実上の国民皆保険制度が合憲判決を受けました。連邦政府の徴税権の一部として認められたのです。大統領が選んだのは「自助」ではなく「公助」でした。日本でも増税だけは決まりました。ここからが肝心です。「サービスの質は最低限です。料金だけは値上げします。文句があるなら自分に言ってください」では目も当てられません。
# by ars_philosophica | 2012-07-01 19:58 | コラム

デブリン卿的誤謬?

政治と道徳の混同は一つの古典的誤謬です。とはいえ、今回は、ある種の「デブリン卿的誤謬」に陥らないように注意しつつ、政治の問題と道徳の問題における平行推論に取り組んでみようと思います。

ウイリアムズ(B. Williams)によれば、近代における支配の正当化には、その政権がリベラルであることが求められているといいます。それは過去においては必要な条件ではなかったのですが、近代においてはそうなったというのです。これは、非常に興味深い主張です。なぜなら、支配の正当化に必要な条件が、時代によって変わるということだからです。ロールズのような普遍的で基礎付け主義的な理論とは対照的です。

ところで、行為に対する道徳的評価が、仮に私たちの道徳的枠組みに依存するとすれば、同じ行為でも異なる道徳的枠組みでは評価が分かれる可能性があるということになります。この考え方を政治的支配の正当化条件に当てはめるとどうなるでしょうか。

時代によって私たちは支配の正当性を異なる枠組みのもとで評価するのだとすれば、ウイリアムズが主張するように、過去においては必須条件でなかったことが、現代においては求められることの説明になるかもしれません。一つ言えるのは、どのような枠組みも、社会や文化、テクノロジーの進歩を反映し、否応無しに変わってしまうものだという点です。その内側で行われる判断も、また変化を免れません。

私たちは枠組みの内側からしかものを見ることができません。それは「ノイラート船」の船員である私たちの宿命です。時として変化に抗うことも必要ですが、アルキメデス的視点から判断しようとすることは不可能な試みなのです。
# by ars_philosophica | 2012-06-24 16:33 | コラム