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「人間相互の関係を支配する崇高な理想」?

憲法記念日は過ぎてしまいましたが、今回は日本国憲法の前文について考えて見ましょう。中学生時代に暗唱するよう言われ、かなり苦労して覚えた記憶があります。日本国憲法はもともと英語で草案が作られたため、この前文もある意味では翻訳です。そのせいもあるのか、ところどころ解釈に迷う箇所があります。次の一文もその一つです。

「 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

この「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、一体何を指しているのでしょうか?やはり国民主権、基本的人権、平和主義といった理念を指すのでしょうか。しかし、そうすると「人間相互の関係を支配する」という表現が少し浮いてしまう気がします。なぜ、わざわざ「人間相互の関係を支配する」という文言を加えたのでしょうか。

もしかしたら、この言葉で伝えたかったのは、国と国との「信頼関係」の大切さなのかもしれません。そうだとすると、次に続く「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というフレーズの意図も明確になるように思います。この一文は、全体で「武力ではなく信頼関係を通じて平和を維持しよう」という決意を表しているのかもしれません。

信頼関係だけで本当に平和が維持できるのでしょうか?この点についてはさまざまな批判があります。日本を取り巻く昨今の情勢は、国と国との信頼関係の危うさを物語っています。その一方で、国と国との信頼関係が破綻したとき、私たちの安全と生存とが脅かされるのは事実です。

皆さんはこの一文をどのようにとらえているでしょうか。この機会に改めて前文を一読してみてはいかがでしょうか。
# by ars_philosophica | 2013-05-06 17:26 | コラム

思考停止から判断停止へ

「哲学する」とはどういうことでしょうか。一般には、何か小難しいことを言うことだと思われているかもしれません。あるいは、「経営哲学」などと言う際の「哲学」は、「理念」のような意味合いで使われているように思います。学者たちの一部は、哲学とはテクストを研究をすることだと思っています。

ここでは、学問としての哲学ではなく、ある種の行為または活動としての哲学を考えてみたいと思います。哲学はもともと市井の営みでした。それは時間的に余裕のあった一部の古代ギリシア人の間で始まった、ある種の市民活動だったのかもしれません。近代においても、哲学者のバックグラウンドは多様で、中には職人だった人もいるくらいです。現代のようにほとんどの哲学者が「学者」であるという時代は、これまで中世を除いてはほとんど無かったそうです。

哲学を一つの活動として捉えるとき、「哲学する」とは、具体的に何をすることなのでしょうか。それは「批判をする」ことだと思います。ここでいう批判とは、ある問題について「徹底的に吟味をすること」を意味します。安易な結論に飛びつかず、あらゆる側面から議論をするのです。同時にそれは「聖域なき批判」である必要があります。つまり、あらゆる事柄が吟味され、あらゆる意見が真面目に取り扱われるのです。

聖域なき批判は、時には常識を「逸脱」してたり、「不道徳」だったりする可能性もあります。私たちの最も基本的な道徳的信念にすらメスを入れるのが哲学です。議論する前から特定の意見を「疑い得ない真理」と見なしたり、「明白な誤り」として排除することは、哲学的な態度ではありません。哲学的態度とは、「判断を保留し、思考を継続する」姿勢のことです。権威とメディアの判断を鵜呑みにしがちな現代人にとって、これほど難しいことはないかもしれません。思考停止から判断停止へ。これこそが、「聖域なき批判」であり、哲学の最も破壊的かつ生産的な特徴なのです。
# by ars_philosophica | 2013-03-17 21:39 | コラム

時代の流れに抗った哲学者

今回は久しぶりの書評です。ご紹介するのは、アイザイア・バーリン(1909-1997)の『Against The Current: Essays in the History of Ideas』です。本書では、時代の流れに逆らった(Against The Current)哲学者たちが取り上げられています。今回は本書に収録されている「Vico’s Concept of Knowledge」(ヴィーコの知識概念)というエッセイをご紹介します。

イタリアの哲学者であるジャンバッティスタ・ヴィーコは、どのようなCurrentに抗ったのでしょうか。当時、デカルトや彼に影響を受けた哲学者たちは幾何学的手法をあらゆる知識分野に適用しようとしていました。時代の流れは、中世まで続いたスコラ哲学の伝統をすべて白紙に戻し、幾何学的な方法で知識を基礎づける方向へと向かっていました。ヴィーコはこのような方向性に強く反発し、警鐘を鳴らしたのです。

「ヴィーコは、自らの出発点でもあったデカルト主義の魔力を断ち切った。そして、幾何学的方法が適していない分野(例えば詩やレトリック)にまでそれを適用することを推奨したデカルトを厳しく批判する」(p. 112)

バーリンによれば、ヴィーコは知識をscienzaとconscienzaに分けました。scienzaというのは、数学など人間が完全な真理をつかむことができる知識です。ヴィーコのおもしろいところは、人間がそのような完全な真理を獲得できるのは、数学が人間の創作物だからだと考える点です。一方、自然界については、私たちはそのようなscienzaを獲得することができません。なぜなら、自然界をつくったのは人間ではないからです。

バーリンによれば、ヴィーコの思想で重要なのは、彼が演繹的でも帰納的でもない認識の方法に気付いたことだと言います。それは、古代の人々や、私たちとは異なる文化に属する人々の思考、感情、行動を理解する際に必要になるようなイマジネーションです。バーリンによれば、このような想像力は、私たちが言葉、人々、世界観、文化、そして過去を理解するために不可欠な力です。しかし、デカルト的手法がさまざまな知識分野に浸透すれば、このような大切な能力が失われかねない。それこそ、ヴィーコが懸念していたことなのです。

 あらゆる知識を普遍的に基礎づけようとすることは、知識の多様性とダイナミズムを見失う結果になります。「啓蒙」に抗ったヴィーコの思想は、一元的な基礎付け主義へのアンチテーゼです。そして同時に、ヴィーコの思想は、今日グローバリゼーションという潮流に飲まれようする私たちへの警鐘なのです。
# by ars_philosophica | 2013-02-16 22:59 | 哲学書の紹介