人気ブログランキング | 話題のタグを見る

思考停止から判断停止へ

「哲学する」とはどういうことでしょうか。一般には、何か小難しいことを言うことだと思われているかもしれません。あるいは、「経営哲学」などと言う際の「哲学」は、「理念」のような意味合いで使われているように思います。学者たちの一部は、哲学とはテクストを研究をすることだと思っています。

ここでは、学問としての哲学ではなく、ある種の行為または活動としての哲学を考えてみたいと思います。哲学はもともと市井の営みでした。それは時間的に余裕のあった一部の古代ギリシア人の間で始まった、ある種の市民活動だったのかもしれません。近代においても、哲学者のバックグラウンドは多様で、中には職人だった人もいるくらいです。現代のようにほとんどの哲学者が「学者」であるという時代は、これまで中世を除いてはほとんど無かったそうです。

哲学を一つの活動として捉えるとき、「哲学する」とは、具体的に何をすることなのでしょうか。それは「批判をする」ことだと思います。ここでいう批判とは、ある問題について「徹底的に吟味をすること」を意味します。安易な結論に飛びつかず、あらゆる側面から議論をするのです。同時にそれは「聖域なき批判」である必要があります。つまり、あらゆる事柄が吟味され、あらゆる意見が真面目に取り扱われるのです。

聖域なき批判は、時には常識を「逸脱」してたり、「不道徳」だったりする可能性もあります。私たちの最も基本的な道徳的信念にすらメスを入れるのが哲学です。議論する前から特定の意見を「疑い得ない真理」と見なしたり、「明白な誤り」として排除することは、哲学的な態度ではありません。哲学的態度とは、「判断を保留し、思考を継続する」姿勢のことです。権威とメディアの判断を鵜呑みにしがちな現代人にとって、これほど難しいことはないかもしれません。思考停止から判断停止へ。これこそが、「聖域なき批判」であり、哲学の最も破壊的かつ生産的な特徴なのです。
by ars_philosophica | 2013-03-17 21:39 | コラム
<< 「人間相互の関係を支配する崇高... 時代の流れに抗った哲学者 >>