人気ブログランキング | 話題のタグを見る

判断を保留して考え続けること

このブログについて

少し前に参加し始めた哲学カフェという集まりがある。巷(ちまた)からさまざまな論客が集まって議論する「哲学の場」だ。論客といっても、普段は学生だったり、主婦だったり、会社員だったり、何も議論の「プロ」というわけではない。それでも一度、議論を始めれば、そのうち誰かがドキッとするようなことを言う。一瞬だけ、混沌とした概念の縺れがほぐれたかのような感覚を覚え、遠くに一瞬だけ問題の出口を目にしたような気がする。

デカルトは「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられている」と書いているが、それはだれにでも真偽を判断する理性が備わっているという意味らしい。それなのに世の中がこんなにも理不尽で、今でも「良識ある人々」の間でさまざまな問題に決着がついていないのは不思議なことだ。デカルトが期待しているのは、人々に理性を適切に用いる方法を身につけてもらい、そうした問題にすっかりと決着をつけることのようだ。そんなことが可能なのだろうか?

哲学カフェのような活動は、ある種の「理性のトレーニング」になる。けれども、いくら議論を重ねても参加者の大多数が明確な合意に至ることなどまずないだろう。それは、今だに私たちが理性を適切に用いる仕方を知らないからなのだろうか?もしそうであるなら、それは幸運なことだ。なぜなら、いつかは私たちは明確な合意に到達できるかもしれないから。一方で、そもそもそのような合意など望むべくもないとしたら?人間の理性にはどこかに限界があり、永遠に未解決に終わる問題があるとしたら?

哲学は少年時代からの関心事だったし、学生時代にも哲学のゼミで学んでいた。哲学書や哲学の授業は考えるためのヒントを与えてくれる。それが、一度「社会人」というやつになると、そうしたアカデミックなリソースは疎遠になる。それでも、どこかで「考え続けたい」欲求を感じる。哲学カフェはそうした人々の受け皿にもなっているのだろう。

人間には、理性のトレーニングが必要だが、それ以上に考え続ける姿勢が必要だと思う。判断を保留して、考え続けること。理性のトレーニングは脳トレのようなつまらないパズルではない。理性のトレーニングは、日々の体験や人間の実存と密接に結びついている。生き生きとして、ときとして不愉快なほどに生々しい。

明確な答えや合意なら、実はいくらでも巷に溢れている。それを求めているなら、すぐに見つかるだろう。本当に難しいのは、判断を保留して、考え続けることのほうだ。実は、考え続けることだけが、理性をトレーニングする唯一の方法に違いない。

このブログでも、「判断を保留し、考え続ける」ことをテーマにしたい。当初このブログを始めた目的は、Amazon Kindleで読める哲学書の紹介をしようと考えたことだった。しばらくその方向だったが、数年前から更新が停滞していたことを少し反省している。

今後は半ば個人的な思考のメモ書きのような体裁になるかもしれないが、哲学書の紹介にこだわらず、さまざま問題について考えたことを短い文章にまとめて投稿したい。


# by ars_philosophica | 2020-05-23 17:31

ロボットと倫理

あけましておめでとうございます。しばらく記事のアップが停滞していましたが、2014年も引き続き、哲学関連の書評・コラムをアップしていきたいと思います。今回は去年の12月に参加した哲学カフェでの議論を少しご紹介することにしましょう。テーマは、「ロボットに倫理を教える」というものでした。

主に二つのことが問題になりました。一つは、ロボットが自らの行為について道徳的責任を負うことができるかです。ロボットはルールに従うことはできるかもしれませんが、内面的にルールの正しさを理解し、それから逸脱したときに、道徳的な罪の意識を持つようにプログラムできるのかが問題になります。また、ロボットの行動はすべてプログラムにより制御されている以上、何をしたとしても、それに責任を負うのは、ロボットを製造した人間になるかもしれません。だとすれば、「私は命令に従っただけです」という無責任な抗弁も、ロボットには許されるのかもしれません。

もう一つ議論になったのは、ロボットに人間と同じような権利を認めるべきかどうかです。ロボットに人間と同じような権利を認めることは、人間にとって脅威となるという意見もありました。これは人間の身勝手な考えなのでしょうか。しかし、平等の名の下に、ロボットの社会進出と人間の利益をトレードオフすることは、そう簡単なことではありません。もっとも、徐々に人間とロボットの境界自体が曖昧になっていく可能性はあります。

今すぐには無理でも、近い将来、道徳的責任を引き受け、人間と同等の権利を主張するようなロボットが出てくる可能性はあります。そのとき人間はロボットに対して、良き隣人として振る舞うのでしょうか、あるいは神のように振る舞うのでしょうか。あるいは人類に「機械仕掛けの神」が降臨するのでしょうか。
# by ars_philosophica | 2014-01-04 00:15 | コラム

アメリカは自由を犠牲にするのか

先日、世界を震撼させるニュースがありました。米有力紙によると、アメリカ政府が大手IT企業のサーバーに監視プログラムを仕込み、ユーザーのデータを秘密裏に収集していたというのです。名前の挙がった企業は、相次いで積極的な協力を否定する声明を発表しました。

これらの企業は、私たちの誰もが日常的に利用している商品やサービスのプロバイダーです。彼らはアメリカ政府に「ハッキング」されてしまったのでしょうか?真相は不明ですが、もしそうなら、私たちとしては、彼らが「被害者」だったと信じたいところです。

政府の監視活動に法的根拠を与えているのは、いわゆる「愛国者法」です。かつて存在したどのような独裁国家も、これほど効率的に市民の情報を集めることはできなかったかもしれません。これが自由と安全との間で葛藤するアメリカ社会の現実です。

安全の為に自由を犠牲にする者は、そのいずれにも値しない。アメリカ建国の父であるフランクリンは、かつてそう述べました。アメリカが守ろうとしているのは、自由主義の価値観ではなかったのでしょうか。それを守ることができるのか、政府、企業、市民、それぞれの姿勢が問われています。
# by ars_philosophica | 2013-06-09 20:16 | コラム